出来る、出来ない

出来る、という言葉をふと見ていて気づいたこと。

出来るとは、「出る」と「来る」と書くということ。

それは「出す」と「来た」とも言えますよね。

文字には色々な成り立ちがあって、時代によって変化してくるものもあったりします。

でも物事、そうなるのには、そうなる原因があっての結果。

やっぱり名前にもその名前を使う理由があってその名前を使う結果になっているのと同じ。

それは人の名前だけに限らず、物の名前、そして行為を示す言葉にも、また漢字一つ一つまでにも、そうなるにはそうなる原因、元々の意味かがあって、その形が作られています。

出来る。

それは「出す」と「来る」と考えたら、七赤の悦び=兌と同じ意味。

出来るとは、出す=自分の力を出す。

だから「来る」。

自分の力を必要以上に出す。

だから必要以上のものが自分の元に来る=起こってくる。

そして出さなければ、来ない、が「出来ない」。

出来、という言葉一つ取ってみても、本来どうすべきか、どう生きるべきか、どう生活すべきか、ということを教えてくれていると思えます。

自分の体にあるものは、髪の毛も足の小指の爪も、すべて必要があって揃っているもの。

この世の中にあるものすべては、宇宙という大きな「全体」という「体」の中で、すべて必要があって揃っているもの。

体の中のどの部位も不要な部分が無いように、起きてくる病気すら、自分の生活態度を写す鏡として必要なように、持って生まれた体が、自分の生まれる前に関わってきいる人の思いを伝えてくれることに必要なように、宇宙の中で起きてくることは、何一つ無駄もなく、駄目なものも無く、全体の成長のために必要なことで常に構成されているはず。

全体に必要な成長は当然その中に存在するどんな小さなものにもの成長に通じているはず。

だから一つ一つ、どんな些細なことにも意味を考え、活かすこと、力を「出す」ことで、自分が活かされること=チャンスが「来る」、につながってくる。

出来る、という言葉から今朝気づけたのは、今日が日盤五黄中宮、月盤三碧中宮、年盤九紫中宮の気のおかげ、と思えました。