三碧中宮、思うまま徒然に

一白は苦労の星と言われ、吉方でも苦労からのスタートと言われる。

 

一白吉方は、最初の苦労が怖いから避ける、という人もいれば、苦労があれば、それがスタートの合図だから喜んで苦労を受け入れる、という人もいる。

確かに、苦労というマイナスがあっても、そこからプラスになっていく、という考えはすごくよいように思うのだけれど、最近思うのは、もっと苦労ということ自体がフラットな存在なのだな、ということ。

 

私の学ぶ気学は相剋の関係を凶とは言わない、という考え方。

苦労も同じ。

誰も一白の人を凶の人とは言わないのだから、苦労だって凶じゃない。

でも何故か今の世の中、苦労は忌み嫌うもの、みたいな存在になってしまっている人が多いのではないかなぁ、とちょっとふと思えた。

 

 

苦いか甘いかしょっぱいか…、そんな違いで自分が苦手な味かどうかはあるけれど、すべてが自分の体の肉となり血となる必要で大事でありがたい要素。

苦労はただ単純に、苦いというだけの存在。

そして苦いものはイコールまずいもの、というわけでもない。

苦くても美味しい食べ物がたくさんあるように、味わい、自分に必要なものだと思えば、それに出会えることの嬉しさはどれほどになることかと思う。

 

例えば死にそうになったとき、普通のときなら飲みこむことすら苦痛なぐらいの苦い薬が、自分を救うたった一つの方法だと知れば、その苦い薬の苦みなんてすっ飛ばすぐらい、その薬に出会えたことが宝物みたいに嬉しく感じるだろうと思う。

 

今の生活の中で起こってくる苦労だって、死にそうにはなっていないかもしれないけれど、今抱えている問題を解消するために天が処方してくれた、そのとき一番効く特効薬。

一期一会という言葉があるけれど、今という一瞬は二度と戻らない。

問題を解決するチャンスだって、その時のタイミングで最良のものが与えられているのだから、苦いから飲まない、と言ってしまえば、その最短の解決方法は気に入らないのかと判断されて道はふさがってしまう。

 

もしくは、これを飲めば解決するんだよね? 絶対だよね? なんて、そのチャンスの薬を作って届けてくれた天の、究極に緻密な采配を、受け止るのが当然のような上から目線の態度でいれば、いくら天だっていい気がするはずもない。

一度は叶えてあげたけど、二度とこんな人のチャンスは叶えたくない、と後回しにしたい気持ちにもなるかもしれない。

でもまあ天は誰にでも等しく、平等。

だから、嫌がらせのお返しみたいな、そんなことをするわけもないので、ただその人にとって、上目線でいることがどれだけ自分に損をもたらすか、ということを教えるために、チャンスを後回しにし、自分の行いを振り返り、考えさせてくれる猶予の時間を与えるだけ。

やることは同じに見えるけれど、同じじゃない。

その人のためを思った愛。

でもやることは同じ。

だから愛と恨みは同じ星が担当するのだな、とまた勉強になる。

 

 

そして気学の勉強はとめどない。

「気」の世界に生きているのだから当たり前なのかもしれない。

かかわるすべてに意味があるのだと思えば、そこからの気づきも無限で果てしない。

そして意味がある、と思えばこそ、それを活かそうと試行錯誤できる。