「空飛ぶタイヤ」を読了して気付かされたこと

先日は映画にもなって話題になっていた「64」の小説を読み、その後池井戸潤さんの「空飛ぶタイヤ」を読みました。

少しネタばれになるかもしれないのですが、64は警察の中の広報という立場の男が主人公。

二つに割れている内部のパワーバランスの中で苦悩し、警察と外部、という窓口としても苦悩し、家庭という中でも苦悩を抱える男。

どこに進んでもいばらの道。

それでも決断は待ったなしに迫られる。

息をもつかせない追い詰められる展開はハラハラさせられたものの、その前に読んでいた浅田次郎の「一路」や池井戸潤の「下町ロケット」のときに色々感じたものとは違い、まあ話題作の内容はこんなお話だったんだな、ぐらいの印象でした。

ちょっとスッキリした感じがしなかったので、間をおかず、今度は買い置きしてあった「空飛ぶタイヤ」に手を伸ばしました。

こちらは、元々同著者さんの「下町ロケット」がおもしろく、他にも…と思って、あらすじはチェックしていたもの。

でも辛い展開が予想されて、手を伸ばすことをためらっていた作品。

中小企業の運送会社のトラックのタイヤが外れて死亡事故が起きてしまう。

整備不良による運送会社の過失なのか、財閥系大手自動車メーカーのトラックの部品の問題だったのか。

何をどう究明しても死亡事故の被害者が戻ることは出来ない。

どうやったって理不尽な思いは残ることが予想されて躊躇していたけれど、他に読みたいと思える作品も無く、こういう展開の中、どう池井戸流に調理された作品になっているのか興味を持って読んでみた。

こちらも、中小企業の社長が、本当に追い込まれていた。

相手は財閥系大手自動車メーカー。

そしてその財閥の系列銀行。

それぞれの内部にすらそれぞれの思惑が走り、つくづく考えさせられたのは気学の勉強で習った「アイデンティティー」。

自分の役割は何なのか、自分はそのために何をすべきなのか、みんなそこを考えることを意識しないまま社会に出てしまったゆえに、自分の利己に走り、本当に大事にすべきもの、という部分に目がいかなくなってしまっていた。

やっぱり、気学のような生き方に関する学びは社会に出る前、もちろん生まれる前から吉方で生まれ、吉名をつけて、吉家相の家で成長していくことが理想だけれど、そのためには生むときの親にその知識がなくてはならないし、そうなれば、やっぱり社会に出る前、生きるということについて学びは必要なのだろうとつくづく思えた。

そう思ってもう少し時間がたってみて感じたことは、「責任」ということ。

本の中に、大手企業の中、腐りきっている内情を目の当たりにするたび、このままでいいのか、と自問する男がいた。

戦う姿勢を見せることは大きなリスクを伴う。

出世の欲もあり、何度も揺れ、本当にこの選択でいいのか、迷い、決断していくけれど、そのたびに、その責任の重さというものがクローズアップされる。

多くの社員の生活を揺るがすかもしれない告発をする選択。

それが自分の手の中にあり、実行に移すか否かで大きく今後を変えてしまう重み。

でもその選択は何のためのものなのか。

死亡事故を起こした責任は誰が負うべきなのか。

何をどうやっても戻ることのない命に対して、自分が今、出来うることは何なのか。

「自分のやることにちゃんと責任を持てますか?」

そんな声が私自身にも聞こえてくる気がした。

自分が何のためにこの勉強をしているのか。

改めて、責任を持てるだけの揺らがない自分を持ちなさい、そのための努力を惜しまず、例え失敗することがあっても、自分が何のためにやっていることなのか、「アイデンティティー」を常に明確に、いつもそこに立ち返り、失敗を乗り越えて進んでいく。

責任か…。

八白土星の切り替え、転換の日の朝、昨日の寝る前から読み始め、朝になって続きを読んで、一気に読了してしまった小説「空飛ぶタイヤ」。

今、読むべくして読み、聞くべきメッセージに気付けた気がした。

放心状態なのか飽和状態なのか、頭の中がパンパンなのかフワフワなのか、なんとも言えない不思議な感覚。

それでも身の引き締まる思いで「責任を持つ」という言葉が頭の中をこだまする。

頑張ろう。