南の八白吉方のおかげかも

私の学ぶ気学は、学んだら資格とか関係なくどんどん教えていくことをよく言われました。

それは気学を学び、教えることで、理解を深めるということもあると思います。

でも4年学んできて思ったのは、もう少し違う考え。

誰しも新しく始めることは難しいもの。

気学でも新しく始めるものは一白水星の担当で、必ず苦労を伴うもの。

でも同じ始めるというものでも、上司などに引っ張られる形で大きく始まってくるものは六白金星。

そして今あるものを活かして、新しい展開に切り替えて始まってくるものが八白土星。

私たちは一人一人様々な人生を送っていて、誰一人として同じ人生は歩んでいませんが、共通することがひとつだけあるわけです。

それは生きているということ。

どんな人生でも、いくらか生きてきた道がある。

気学は生き方の学びであるからこそ、誰にでも当てはまる話として受けとることができるし、誰しもがそうそう、そうなんだよね、と共感を持って伝えることができる。

だから、その学びはただの知識として情報としてではなく、共感の意識を持ってさえいれば、必ず広がっていくものなのだという意味を持って「学んだら教えて」という言葉につながっていたと今は思えます。

気学を学んでみて、今まで、ただ自分の視野の範囲の考えだけで生きてきた自分とは全く違う自分に少しずつながらも切り替わっている実感があります。

生きていることとはどういうことなのか。

どういう思いがあって自分が生まれたのか。

それは親のことだけでなく、親の親、またそのもっと昔の、気に入らなければ相手を殺すような時代もあり、農耕が出来るまではその日暮らしで獲物にありつけなければ食べることもままならない時代もあり、そもそも人間という生き物はどうして生まれてきたのか、何の思いがあって生まれたのか、どんな思いがあって生まれてきたものなのか。

必ず今あるものは、何かの思いがあってスタートし、それが形になってきているもの。

そんな原理が気学を学んでいると自分の中に、ただ学校で学んだ知識としてではなく、本気でそういうサイクルというものの存在や、そういう思いを知ることの大切さへ意識を向けることが少しずつ出来るようになってきています。

気学のよさは、吉方で生活がよくなるとか、今まで出来なかったことができるようになるとか、良いものを取り入れ、毒になるものを避ける方法など色々あります。

でも一番は、自分が人間であり、知恵を持っていることに気づけることのように今は感じています。

今の自分というものをよく知るから、自分なりにそれを活かそうと考えることができて、自分なりに、誰にも真似できない自分にしか出来ない道を開拓していける。

そんな単純なことに気づける。

気学という学びのことを、依存、という形でとらえたり、窮屈なもの、ととらえたりという話を聞いたり感じたりすることもあります。

人には色々な過程を経ていく自分なりの道があるので、それもまたひとつの道。

そういう考えを経て、また新たな考えに流れていく。

多くの人は不幸になりたいとは思わないはずなのに、それでも無意識に幸せになる考え方から遠ざかろうとしてしまうケースがあることも事実。

自分を変えない、何かのせいにすることがラクな場合もあるし、そう考えることでしか今の自分の均衡を保てないということもある。

でも必ず地球上で生きている以上、どんな動きも自己成長のひとつ。

遠回りするのも個性。

ただ、生きているものには時間の限りがあることも事実。

限りある時間の中でどう生きるか。

それでもどんなに大事な相手でも、何一つ押し付けることは出来ない。

ただ自分の役割を果たすだけであり、その姿を見せるだけ。

なんだか急にそんなことについて考えてしまった今日の朝。

四緑中宮の年、南の八白吉方を取ったおかげなのかも。

九紫中宮。

大雨の朝。

天気は天の気。

日々目に止まるもの、感じるものは本当に自分にたくさんの気づきを与えてくれる。

気学を学ぶと、本当に日常が深く感じられる。