一人の女優さんが亡くなられて、連日その生きざまにスポットライトが当たっている。
そういう話をたくさん聞く中で、あんなふうにはなかなか出来ない、とは思いたくない。
人のよいところを学ぶのはいいけれど、人のマネに固執してみたりしなくても、逆にあの人だから出来たこと、と特別化してしまうのでもなく、自分は自分だけにしか出来ない生き方があると気づきたい。
でも私がこうやって思えるのは、この気学という学びに出会ったこともあるけれど、その発端は父の存在である気がする。
あるときまでは、遠くもないけれど、すごく近い存在でもなく、知っている部分もあるけれど、知らない部分も多かった父の存在。
でも、私がまだ社会人になって数年ほどの世間知らずの頃、結婚するとき言ってくれた言葉。
私が選んだ人なら間違いないから反対する必要なんてない。
客観的に見た、本当の私という人間の価値や評価なんて関係なく、ただ父が私を信頼してくれた、ということ。
父自身、口先だけで格好いいことを言っただけかもしれなくても、その言葉に、私は父がそんなふうに言ってくれた喜びと、自分の生き方に、自信みたいなものをもらえたのだと思う。
そういえば父がかかっていた病院の先生も私を作ってくれた大事な一人。
母でなく、私を一家の代表、長女として何とも言えない距離感で接してくれた。
あのときのやりとりも、私が一つ成長させてもらえたというか、自信と自覚を持たせてくれたと思える。
病院の先生と患者やその家族は顧客とは言わないかもしれないけれど、顧客サービスの秘訣とか、そんなのマニュアルでどうにかなんて、絶対相手に通じないと思える。
人間と人間の間にあるのは常に相手を信頼する思い。
その思いに相手も必死に応えようと思えるのだと思う。
自分を育てることも、子供を育てることも、きっと部下や顧客を育てるというようなことも、すべてまずどちらかの信頼があって、それが相手を育て広がっていく。
その信頼があると、自信が生まれ、自覚が生まれ、自己の確立した一個人が出来上がっていくのだと思う。
私はたまたま自分に信頼を与えてくれる存在が先にあったおかげで今があるけれど、そういう存在に恵まれていなかったとしたら、自分が人を信頼することから始めればいい。
恵まれた人恵まれなかった人、どちらの環境がよかったとか悪かったとかではなく、私には私の学ぶべき環境があるし、人には人の学ぶべき環境がある。
こうやってあるがままを受けとることを学べたのは気学の学びのおかげ。
なかなかそうは言っても…と思えて前に進めないとしたら、気学の学びはいいと思える。
【追記】
私の場合のような体験が無くても、気学の学びの中に、あるがままの自分でいいんだと思える気付きが出てきます。
気学はそういう学びだからというか、気という生命エネルギーがそういう個の尊重のような動きの中にあるもので、それを気学という形で学ぶ中で、個の確立が自然と正しい形に戻っていくからだと思います。
私の学んだ気学をお教えしています。