火事場の馬鹿力を出す

人は困難に陥ったら、絶対そのまま進みたくない、という思いで何か回避策を探そうとする力がある。

そのとき、自分でも気づかなかったような、思いがけない力が出せる。

だからこその陥入。

やっぱり辛く苦しい体験がある人の「もっと自分の夢を叶えたい!」という思いは強い。

本気でそこに戻りたくない思いがあるからこそ、絶対何が何でもその場所からは浮上してやる、という気持ちがある。

「このままでいいの?」

そこをとにかく自問してみる。

「絶対もっとこうなりたい!」

その思いを高める。

 

ミサイルが発射され、世界が緊迫した状況になっている。

でもその緊迫感を本気で感じている人がどれぐらいいるだろう?

やっぱり戦争、というものに対する実体験がなければ、今回のことも確かに「怖い」と思う人がいても、本気で自分や自分の大事な人たちが死ぬかもしれない、という身の恐怖まで感じる人がどれだけいるだろう?

本気でこの事態を回避できるよう、何が出来るのかと考えを巡らせる人がどれだけいるだろう?

気学を勉強する前の私だったら、そういう難しい話は関係者に任せておくしかない、どうせ一市民に何が出来るわけでもなし、と思っていた。

 

 

確かに一市民に出来ることは無いかもしれない。

でも一つは全体であって、全体は一つである考えを気学から学んだ。

まだまだ理解には浅いけれど、世界は体と同じだと思う。

爪の先なんて、血の巡り、心臓の動き、脳の動きなどとはかけ離れた存在のように思える。

でもそんな爪の先だって、一個体を成立させるのに欠けていては成立しない大事なパーツであり、そこが腐れば菌が体中を巡って死に至ることだってある。

体のパーツ一つ一つすべてが、一つの体を構成しているメンバーだという自覚が無ければ体は成り立たない。

世界も同じ。

一人一人がしっかりと戦争はしたくない、そのための努力をしたい、という気持ちを持たなければ、小さな腐った心の破片からだって、世界は崩壊に向かえてしまう。

 

一人一人が国を作っていて世界を作っている。

本気で平和を願い、そのための努力は惜しまない、と決めなくてはいけないと思える。

そういう問いかけを一人一人に投げかけてくれているのが今ではないのか。

そして今の平和、というものの中で生活が出来ているということは当たり前じゃなかったことにも、先人の人たちの努力があってこそだということにも改めて目を向けたい。

今よければいいじゃん、ではなく、先人の人たちがしてきてくれたことにならって、自分たちも未来に何が出来るのかをしっかり考えなければ、先人たちの置き土産を、ただむさぼるだけになってしまう。

 

こんなことを今は考えているけれど、日中はテレビのニュースを見ながら、警戒してくれと言われても、警戒のしようがないだろうに…と思っていた。

でもやっぱりどうせ何も出来ないとか、関係ないとか、なるようにしかならないとか、そんな考えではダメなのだと思う。

まだまだ自分も戦争とか自分が死ぬかもしれないようなことには本気で考えられないのが本音。

実際におぼれ死にそうになったとか、車に轢かれそうになったとか、そういう体験のある人と無い人では、水の危険性に対する危機感、車の危険性に対する危機感はどうしても違ってしまうのと同じだと思う。

それでも今を真剣に生きようとすることなら出来るはず。

体の爪の先はどうやったって心臓や脳の動きに直接はやっぱり関係しない。

同じ体のパーツの一つであるとは言っても遠い存在であることは確か。

でも爪の先だって、やるべきことを怠って菌の侵入を許してしまえば体を死に至らしめるのも事実。

だから爪は爪のやるべきこと、皮膚は皮膚のやるべきこと、そうやってやるべきことの大きさや重要性に限らず、それぞれが一所懸命にやることが、一つの体を快適に維持できることにつながるはず。

とにかく今、本当に本気で自分にとって大事なことに真剣に向き合わなければいけない時。

そう感じた。