「指原莉乃がキレイになり過ぎてる! 2008~2017、画像と共に振り返る脅威の垢抜けぶり」
指原さんに特別興味は無いのですが、この記事を見ていて感じたことがありました。
2010年5月の指原さん。決め決めの自撮りにも関わらず、何も盛れていないかのように見えるほどの仕上がり。
2014年4月の指原さん。自撮りじゃなくとも「可愛い」のレベルにまで達するほど成長しました。
昔からいかに美しく見せるかとか、愛される術とか、最近はいかに目を引くインスタ写真を撮るかとか、色々テクニックを磨く方法が研究され、内容に興味を惹かれることも多いですが、結局何を表現するにしても、いかに中身を磨くかどうか、ということなのだろうなと感じました。
中身がよければ、どの角度から写真を撮ったって素敵に見えるとか。
どんなヘタな絵を描いても「いい」と感じられるとか。
要は、何をやっても「その人自身」の切り写し、その人自身の一部が見えるだけなので、見せ方どうこうの話じゃない、ということ。
いかに綺麗な洋服を着て出かけても、綺麗にメイクしても、家の中がゴミ屋敷では、例え家の中を見せることが無くても、結局普段の生活は透けて見えてしまう。
普段の生活の積み重ねが「自分」という中身を作る。
そして例えば自分の一瞬を切り取る写真も、自分が撮るほうの写真でも、自分が話す言葉でも、自分が人から見られる顔でも、何もかもすべては「自分」という一つのもののほんの一部。
当然一部を磨くことに躍起になるより、本体を磨くことも合わせたほうがより輝くだろうし、それは必ず人とは違う輝きになる。
だって日々の生活は一人一人必ず違うものだから。
日々の生活を見直す。
裏表どこを見せても、どの角度からどの瞬間に見られても大丈夫な「自分」を作りたい。
日々の小さな小さな積み重ねは二黒の世界。
そしてそれは極まって転じれば全陽の六白の世界。
物事は大きく動いてくる。