あの人はすごい、と思うことがあったり、自分はたいしたことがない、と思うこともあるかもしれない。
でもそれは自分の視点で見た評価の一つでしかない。
もちろん、たくさんの人の評価でその人がものすごい人に思われていても、たいしたことがないと思われていても、それが確かに正しい評価かどうかはわからない。
ただ確実に言えることは、自分はたいしたことのないように見えても、必ず他の人と自分とは絶対に重ならない、自分の得た経験と考えがあるということ。
それは生きた年数分の何かがあり、必ず自分で無い人には得られないこと。
他人から見て自分が持っていないものであれば、単純にそれだけ貴重なもの、貴重な存在と言っていいのじゃないのかなと思える。
だから自分がどこかのすごい人と比べて自分なんて…と思うことも無いし、自分には自分の経験があるし役割もあるはず。
誰に寄せることもなく、自分だけの道を作っていけばいいだけ。
もっと自分の生きてきたもの、感じてきたこと、すべてを活かそうとすれば、自分にしか出来ない何かになる。
青い鳥のお話のように、自分の幸せになるアイテムのようなものは自分の遠い外にあるわけじゃない。
どうしたらいいのか、ではなく、どうなりたいか、という気持ちを軸に、今手にある持ち駒をどうにか使ってそのなりたい自分に近づくことが出来ないか考える。
どうしてもどうしてもどうしてもわからないときには、ちゃんと何かの形で教えてもらえる。
大事なのはまず自分の手持ちの駒=経験と知恵を活かそうとすること。
どんなにたいした経験が無くても、たいした経験が無いからこそ、たいした経験をしたい、という思いの発露になるかもしれない。
たいした経験も無いからこそ、新しく知ることがすべてにおいて新鮮で、新しい発想につながるかもしれない。
自分の中の可能性をもっと信じていいと思う。
ただ現代は本当に忙しい。
昔だったら夜は電気も無くて、月明かりではやれることも限られていて、外に出れば獣がいて危険だったりして家のような場所にこもっていないといけなかったかもしれない。
何もすることが無いとき、人はすべてを停止するわけじゃない。
頭の中で色々考える。
今までの経験から今、そして未来。
動くことは出来ない分考える。
動きたいけれど動けない中で考える。
そうやって動きたい、どう動きたい、こんなふうに動きたいという気持ちが高まって朝日が昇るから、やりたいことに夢中になって動くことが出来る。
忙しい中では自分が本当に何がやりたいのか、自分の気持ちは何なのか、そういう気持ちに向き合う時間が無い。
だから陥入のときはお金が無くなり、遊びに行くことも控えないといけないかもしれない、病気になってゆっくりしないといけないことになるのかもしれない、一番仲のいい人と喧嘩して孤独になるのかもしれない。
そうやって自分と自然と向き合える時間を天の采配で与えてもらっている。
誰よりも早く、どこまでも遠く、人に羨望されるように走っていきたいと思うかもしれない。
でも時には立ち止まって思考する時間が必要だし、しっかり充電してまた走るための準備の時間も必要。
一白中宮の今年、じっくり自分と向き合う時間を持ちたい。
目の前の何かにどうするか、というのではなく、真っ暗闇の中にいるとして、自分は明るく日が昇って来た時、一番に何がしたいのか。
何のためにしたいのか、どんなふうにしたいのか、そのために何がまだ足りないだろうか、わからないじゃなく、誰も教えてくれないぐらいのつもりで考えてみる。
今の世の中は検索すれば何かがヒットし、簡単に答えが見つかり過ぎ。
自分の中の考える力は退化してしまう。
考える力が無くてもいいなら人間である必要はないんじゃないのと天に思われても仕方がなくなるかもしれない。
人間に生まれ、考える力を与えられたことの意味を考え、その力をしっかり活かせば、どれだけよくなれることか。
自分の内側に秘めた力は、きっと自分が思っている以上。
ただそのためには、あくなき学びも必要。
どんな学びでも学ぶ中から見えてくるものがあり、自分を豊かにさせてくれるから、気付けることも広がってくる。
この世は陰と陽の世界。
自分の内側を見つめることと外に出て学ぶこと。
内と外という相反するものが重なって一つの形となる。
どちらか一方のやり方が正しいとか正しくないじゃないところもミソ。
気学を学ぶと本当に色々なことがわかってくる。