家族を良くしたい気持ち

気学を学んでいると、人を変えることは出来ないから自分が変わること、という話しを学びます。

この意味をじっくり考えていくと、人を変えたいというか、良くしたい、良くしてあげたい、という気持ちは、相手を信じていない、ということにもなるなと思えます。

人にはそれぞれにちゃんと必要な力を持っている。

何があっても起き上がったり立ち直ったり良くなっていく力を持っていると知っていれば、何も相手を心配する必要などない。

自分は自分の心配だけすればいい。

家族、特に子供は自分が育ててあげないと、という気持ちが、いつまでもしみついている部分があるかもしれないけれど、ある程度の時期を超えれば、もうこの子には自分で経験して自分で考えて行動する力がある、と気付くことが大事に思う。

人は自分の子供であっても、当然体は別ものなのだから、その子の代わりに痛みを変わってあげることも出来ないし、いずれ子供を残して死ぬことにもなるのだろうから、すべての心配から一生遠ざけてあげることも出来ない。

自分がどんな困難からも前を向いて生きてきたように、子供もどんな人も、一人で生きていける力はある。

ただもちろん足元から大地のように支えたり、一緒に何かすることを悪いというわけではないけれど。

でもまず自分から変わる、という言葉の意味を考えた時、自分が困難からも前を向いて生きる姿勢を見せるだけで、子供もどんな人も、そうすればいいんだと真似て、いつしか自分でも同じように一人で前を向いて進んでいける力はある。

そこに気付けたら、自分はどんな姿を人に見せるのか、人の目に残していくのか。

いつでも凛と背筋を伸ばして生きよう、と思えるように思えた。