この世の中に名前のついていないものは無い。
「山」と書けば誰しもが高い山を思い描ける。
また、自分の名前に悪口が書かれていれば、その文字そのものに感情は無いはずなのに見れば不快な気持ちに直結する。
それぐらい言葉、名前、文字とは心と密接な物。
人が生まれて名前を与えられる、ということは、その人が、今後どういう人生を歩んでいくかという宣言そのもの。
人間として生まれているのに、花とつけてみたり、雛とつけてみたり、翔馬とつけるということは本来おかしなこと。
花のように、かわいい雛のように、翔る馬のように。
それぞれ願いを込めたつもりでも、人間に生まれたということは、この世で一番知恵のある生き物として生まれたということ。
与えられた知恵を活かす使命があるはず。
花のように一瞬咲いて散るような人生でいいのか。
雛のようにいつまでも大人になりきれない人生でいいのか。
馬のようにずっと走りっぱなしで走れなくなった時にはお役御免になってしまう人生でいいのか。
いつまでも綺麗だとチヤホヤされたい、いっときでいいから華々しく成功したい、いつまでも可愛がられたい、我儘を許されたい、そんなふうに思って生きていたり、親として、子供は余分なことを考えずに親が言うことをしっかり聞けばいいと思っていたり、成功者として常にトップを走れと思っているようでは、良い名づけは出来ない。
何のために生きるのか。
自分の考えを持ち、自分の役割を果たしていける人間になるための名前。
自分の人生にはどういう意味があって生まれたのか。
今後どういう目的を持って生きていくのか。
根本的に人生そのものを深くとらえる、という意識が無ければ、名前、というものに関わることは難しい。
単純に約束事に当てはめて名前をつけようとしても、自分の考えの深さ、浅さ、人生に対する責任感の重さ、軽さがそこに出てしまう。
親として、子供へよい名前を付けるためにも、自分の人生、生き方に対しての思考を深めておくことが大事。
五大真理の姓名鑑定の学びは、やっぱり気学の学びと共に、並行して学んでもらうことが大事だと思える。