幸せの大きさと頻度

一生に一度世界一周旅行に一回行くより、近くの温泉に何度も行く方がいいのでは? という話をお聞きしたことがありました。

大きな幸せのほうがよさそうなのですが、やはり大きな幸せは慣れたり忘れたりしてしまいやすいものだという例えでした。

 

また、幸せなことが起こるのはもちろん嬉しいことですが、たった一つのアクシデントで、そんな幸せに思えた感情も簡単に吹き飛んでしまったりもするのではないかなぁと、ふと思いました。

例えばこの人と結婚して本当によかったーと思っても、ひとたび、二人の関係にアクシデントがあれば、結婚したときの、もう死んでもいいぐらいに思った幸せはどこに?となりかねないのではないかと思うのです。

 

だから、常に不幸に身構えて置こうという話ではなく、大きな幸せを狙って翻弄されるのではなく、もちろん目指す先は大きな幸せでいいと思いますが、アクシデントが起こっても揺れない自分を作っておくことが大事だと思います。

 

そのためには、自分は今何が起きても、どんなトラブルが起きても、これを越えたら、またステップアップ出来る、という経験を積むことしかないかもしれません。

どんなに大丈夫、と言われたり聞いたりして、自分で納得したつもりでも、経験の無いことに対して脳というのか潜在意識なのか「大丈夫というデータが無いから未知数、失敗の可能性あり」と判断してしまうのだと思います。

一つでも、どんなに小さなことでも、一つ越えた、二つ越えたという実績が、自分に自信を作り、アクシデントにも揺らぎにくい自分を作っていけると最近つくづく思います。

 

本当に大丈夫になった? と何度も何度も揺さぶりをかけられ、試され、一瞬揺れながらも、あ、と思い直して立て直す。

その繰り返しの中で、だんだん揺らがない、今も楽しく、未来も楽しく、過去も楽しく思える自分になっていけそう。

 

うちの母も、散々不満を持たないようにとか、プラスに考えるようにとか、色々いい情報を仕入れては、そのときは頑張ろうと思っていたけれど、なかなかそうさせてもらえない環境、事象が起こったり、自分の感情も、嫌だと思ってから、その不満をプラスにしなくちゃ…と抑えようとするから、全然うまくいかず、気学に出会うまでは本当にさまよっていました。

 

考えを切り替えないと、と思っても、なかなか自分の意志で切り替えることは難しいものです。

嫌いな食べ物は、これは美味しいはず、これは美味しい…という意識を持っても食べられないじゃん、と子供にも言われます。

本当にそうなのです。

でも気学で変われるようになってくるのは、自分が嫌いという意識の根底にある部分が変われるからです。

吉方を取ったりすることは、それがどう自分に変化させるのかわからないような行動に思えるものですが、だからこそ、人間が考えられるようなものを越えた力が働いて自分が切り替われるきっかけになってくるのだと思います。

 

 

でも吉方の力は、多分事態を動かしてくれるものではなく、トントンとちょっと肩を叩いて、その場にいる自分に、こっちを見てみれば? と、ただ視点を変えることを教えてくれるぐらいのような気がします。

だから私はあまり幸せになれる、と言う言葉は使わないようにしていて、今不幸な人なんていなくて、現状でも本当は十分幸せだと思っているし、ただそれに気付いているかどうかだと思うので。

視点をちょっと動かすだけで、本当は何も変わっていなくても、今まで何だったんだろう??と思えるぐらい自分で進んで行こう、もっとやれる、という気持ちがわいてくるものだと思っています。

だから気付かせてくれるのは吉方の作用。

でもそこから行動して環境を変えていくのは自分の力。

人間には自分が多分思っているより力はあって、人間というか、生物は、そうやって死を迎えるまでに精一杯生きようとする力に満ちあふれている生き物だと思います。